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 Column B -2006- 

 TWK店主・小坂政弘が書きたいことを勝手に書き込んでいる
自己満足(?)のページです。いつの間にか「コラム」というより
「フォトエッセイ」って感じになってますが‥‥‥。
 2006/06/11 BLOGへ移行しました
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2006年5月15日 月曜日
No.36 命日
今からちょうど6年前の2000年5月15日、私は茨城県の白井トライアルパークにいた。

この年、全日本トライアル関東大会を初めてこの場所で開催する事になり、パーク管理者の萩原さん、茨城県トライアル 部会長の小幡さん、MFJ関東支部の桜井さん、そしてセクションコーディネーターを任された私の4名が現地に集まって 第一回目の打ち合わせが行なわれていた。

どういった経緯で白井トライアルパークで全日本を開催する事になったのか今では良く思い出せないが、私にとって思 い出したくない過去の一つであることだけは間違いない。

当時、まだ一応現役の国際B級トライアルライダーだった私がオフィシャル側に身を置く転機となったのがこの大会であ ったが、多くのスタッフが途方もない労力を注いで開催にこぎつけたわりに結果は評価されず(特に観客が歩いて観戦 するのにはコースが長すぎてしまい、ずいぶんと酷評された記憶がある)、そのコース開拓中に負った左目角膜の傷は 一生消えることなく、いまだに私を苦しめ続けている。

今思えば、この大会の設営作業が実質的にスタートしたこの日も、私にとって最悪の一日だったのだ‥‥‥。



その頃、私の年老いた両親は二人とも病気がちで、認知症の症状も進行していたため施設に入居しながら入退院を繰 り返すという状態がもう何年も続いていた。そしてこの前日も肺炎で入院中の父を見舞いに、私は家族と一緒に約70km 離れた町田市の病院まで行ってきたばかりだった。

その古い病院の一室で、父は酸素マスクを当てられ苦しそうに呼吸していた。

忙しそうに歩き回る看護婦さんに「ずいぶん苦しそうだけど‥‥‥」と訴えてみたが、「大丈夫ですよ」みたいなそっけな い返事が返ってくるだけ。結局父とは一言も会話を交わすことができず帰ったのだった‥‥‥。



白井トライアルパークでの打ち合わせは、今後の予定の確認等がメインであったため比較的早い時間に終わった。
私は、打ち合わせ終了後も一人で現地に残り、セクションの構想を練るために自分のBETAを車から降ろしてパークを回 ることにした。

ところが、どうしたことか異常なほど身体が重く感じられ、まともに走る事ができない。まるで身体の上に巨大な岩でも 乗っかっているような感覚。そして全身のだるさと同時に激しい睡魔に襲われ、どうしようもなくなって車の中で小一時 間ほど眠ってしまったのだ。

泥のように眠りながら、私は夢を見ていた。
内容はよく覚えていないが、夢の中に父が出てきたことだけは覚えている。


結局そのまま白井トライアルパークを後にして自宅へ帰った私を待っていたのは、父の死の知らせだった‥‥‥。

(当時私は携帯電話というものが嫌いで、また特にその必要も感じていなかったので持っていなかったのだが、この出 来事がきっかけで以後携帯を持ち歩くようになった)

死亡時刻は、ちょうど私が身体の重さを感じて睡魔に襲われていたあの頃と一致していた。
とるものもとりあえず駆けつけた病院では、いつもと同じように看護婦さんが忙しそうに動き回っていた。そしてその古び た病院の小さな病室の片隅で、父は顔に白い布をかけられてベッドに横たわっていた。

その布を剥ぎ取り、私は父に語りかけた。

「‥‥‥親父、あんたは馬鹿だよ!!」




父は一流の腕を持つ機械工、そう、まさに「職人」だった。

しかし、本人はあまり詳しくは語らなかったが、いろいろと不運も重なって勤務先が何度も変わったことなどもあり、その 職人の腕を十分生かすことができず、酒を飲んでは愚痴をこぼしている姿を子供の頃から幾度となく見せられていた。

そんな父を「反面教師」として私は育った。だから、たとえばあまり深酒を飲むこともないし、愚痴もなるべくこぼさないよ うにしてるつもりだ。(あくまでも「つもり」だが‥‥‥)

だが、そんな父の職人としての腕は、誰もが認める一流のものだった。

私もその部分では父をとても尊敬していたし、少しでもその技を自分のものにしたいと思い、高専入学当初の夢であっ た「大手自動車会社への就職」という道を捨て、父が勤めていた小さな町工場に就職する道を選んだほどだ。
(結局その会社は5年ほどで辞めて「トライアルワークス小坂」を開業することになるのだが、その5年の間に父から教わ った様々なノウハウは、すべてのTWKオリジナルパーツに脈々と受け継がれている)

だから、そんな優れた技能を持ちながらいつも愚痴ってばかりいた父のことが、私は歯がゆくって仕方がなかったのだ。



私のかけた言葉に、もう動くはずがない父のまぶたが、ほんの僅かだけ動いたように見えた‥‥‥。



あの日から6年が経過した。 まだ6年か‥‥‥。私の感覚としては、もうはるか昔の出来事だったような気がしている。
父の死から約1年半後に母も他界し、ずっと背負っていた重たいものから解放され、子育てもほぼ終わった今になって、 ようやく「親の気持ち」というものがわかるようになった気がする。

優れた技能を持っていながら、それを本当に評価してもらえる状況に恵まれない、自分ではどうすることもできない現実 に一番歯がゆい思いをしていたのは、きっと親父本人だったに違いないのだ‥‥‥。

そういえば、子供の頃から「母親似」と言われることが多かった私だが、最近どんどん親父に似てきているようだ。


父と私(3〜4才?)
(私が生まれてから小学一年生までの間を過ごした福岡県直方市にて)

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